2009年10月14日

アランとライプニッツ

私は、アラン大好きと同時にライプニッツの研究者なんですが、この二つが結構うまく絡み始めたんですよね。

つい最近考え始めたのは、アランの「思想の歩み返し」とライプニッツが「アルノーとの書簡」で展開する「個体概念」の話。

面白そう。

でも、まだまだきちんと述べるには時間がかかりそうです。

「散文の法則・・・・その法則に従えば、迂回と歩み返しを経て、すべてのものが同時に出会うようでなければならない。」(アラン 『芸術論集』 世界の名著 p.175)
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2008年11月11日

アラン関係の重要なリンクを少し

次のものはフランス語なのですが、Insitut Alainとか、いろいろなアラン研究関係の重要なサイトです。

http://alain.institut.free.fr/index.html

http://alinalia.free.fr/
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アランの著作の電子テクスト

今まで知らなかったのですが、アランの著作(フランス語原文)がデジタル化されてダウンロードできます。

http://classiques.uqac.ca/classiques/Alain/Alain.html
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2008年04月22日

選ぶということ

先日、通勤途中に地下鉄の吊り広告で新刊の宣伝が出ていました。

『親と上司は選べない』という題の本があった。

でも、選ぶというのはどういうことでしょう?

確かに、自分で選んで両親のもとに産まれてきたわけではないですよね。

でも、選ぶとはそんなことじゃないんじゃないかな。

アランは、<すでに目の前に存在しているものを選び取る>という話を「選ぶ」という題材に関して強調しています。

「選ぶとか拒むというような考えは、この模範的な愛(母の愛のことです---説明的挿入) には起こり得ない。ここには、恋するものの学ぶべきなにかがある。つまり、選択が多すぎるということだ。なぜならば、人々は気に入るものを選ぶことが出来るからである。しかし、これは愛することではない。それどころか、選ぶことでもない。なぜならば、これでは出会いが全てを決するのだから。これに反して、自分の気に入ろうと入るまいと、愛することを選びとる者は、自分自身の底から選ぶのであり、全ての運命を免れるのである。」(アラン    『思想と年齢』 pp.230-231)
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2008年02月09日

ショックと情念

さきに、人間が自分を追い詰めてしまう話を書きましたが、では、どうしたら立ち直れるのでしょう。アランは次のようなことを書いています。

「情念は、私たちの哲学者(スピノザ)によれば、つねに世界のショックから生ずるものであり、また、私たちが逆らいさえしなければ、私たちの本来の健康さがすぐこれを癒しにかかるのである。確かに、情念の最も悪いところは、私たちがそれを自分の本性のなんらかの欠陥に関係づけて、これを不治と判断することである。それを実際どおり外来のものと判断するや否や、私たちは自己をそれから癒しはじめるのである。」(アラン 『人間論』 p.304)

外来のものを、自分のものと見誤らないこと。
これが解放の一歩だということです。
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2008年02月04日

薔薇の棘はひっかかない

自分で自分の首を絞めるようなことを、人間はするものです。

アランの『人間論』に次のような言葉があります。

「バラの刺はひっかかない。慎重を欠く者が、無茶な逃げ方をして自分で自分をひっかくのである。馬を殺す人は、その胸先を刺して、そのまましっかりしておりさえすればよい。筋肉というこの力強い機械が、跳びあがる動きよって、自分で自分を切り込むのである。」(p.273)

薔薇はただそこにあるだけなのに、「逃げ」ている人間は、慎重を欠き、不注意にも自分でその棘に向かっていってしまう。

情念が高じていってしまうときも、同じことが起ります。

まずは情念を鎮めることがどれほど大事かわかるでしょう。
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2007年12月23日

精神というもの

精神をもう一度信じるというか、もう一度出発したくなるときがあるんじゃないでしょうか?

そんなときに次の言葉は結構いいなあ。

「とかく観念そのものは燃えがらにすぎないことがある。だが少なくとも精神というもの、これは冬一月の大地のようにいつでも精神でしかありようがない。」
(アラン    『彫刻家との対話』 p.13)
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2007年10月21日

思想の記憶・言葉の記憶

アランに次のような言葉があります。

「人々は、石工が石を扱うように、さまざまな思想を置きっぱなしにできるものと思いがちだ。しかし、思想を記憶するというようなことはあり得ない。あるのはただ言葉の記憶だけだ。」(アラン 『思索と行動のために』 p.289)

記憶できるのは、言葉といった音や形の領域に属するもの、働きとしての思考・思想は記憶などできないのだというのです。ざっくり言ってしまえば、物質的なものは記憶できるかもしれないが、精神的な営みは無理だと言いたいのでしょう。

そうした営みは、その都度、初めからやり直さなければならないというわけです。

厳しい考え方です。

だからこそ、次のようにもアランは言うのです。

「学者もまた、過去の知識をいわばはぎとられる。それを着込むなら、慢心から虚栄心へと投げ帰されるのだ。学問をして、行く先々でほめられ、もてはやされた人間の自惚れこそは、途方もない愚かさの一源泉である。虚栄心は慢心に対する罰であるともいえよう。慢心が頭をもたげて、人より旨くやれるという自身を持とうものなら、すぐ最低水準に落ちるのである。根をつめて仕事をした人々はみな、何事も獲得しおおせるものではなく、征服してはまた征服し直さなければならないのだということを感じている。或る老齢の賢者は、もう休息の権利を持っていたにかかわらず、難しいことが問題になったとき、言ったものである、『昔は私もそれを理解したのだが』と。」(アラン 『人間論』 p.221)
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2007年09月03日

知ることとできること

別に理由を知らなくても、できればいい、ということはありえます。

というか、普通はそんなところで人は動くのではないでしょうか。

「人は知識以上に能力を好む。そして、成功は常に私たちの理解力を越えるとは、私たちの行動の奇妙な一法則である。そこで、成功によって面目を失わぬ人はないのである。何の技術であれ、およそ技術とは自己自身をあなどるこの種の思想である。実際に空を飛ぶことができるなら、理屈はどうでもかまわないのだ。」(アラン 『人間論』 p.166)

もちろん、アランは「理屈」にもこだわりたいのです。


塾で中学生を教えていたことがあります。
数学で文字式などの問題をやらせる前に、一応の説明はします。
でも理解しない生徒がいる。
そういうとき、あなただったらどうしますか?

理由はどうあれ、<文字aには〜を、文字bに〜を入れればいいんだよ!>と言いたくなる。

確かにそうすれば、答えは出て、答え合わせで<正解!>ってことになるんだから、それでいいんだっていうことになりますかね?

なんかおかしいと思いませんか?

これが、つまり、<できるようにはなったが、理由がわからない>ということでしょう。

別に中学生に限ったことではありません。

いろいろな学問には公式というものがあります。
マックスウェルの公式とか・・・・。
本当はそれをいちいち自分できちっと理解した方がいいに決まっている。
でも、<使えればいいじゃん!>っていう人が一杯います。

でもそれでいいのかなあ。
できることが幸福なんでしょうか?
posted by masaccio at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月15日

意志の教育

リセの哲学教師であったアランが、次のように述べているのは結構興味深いと思います。

「私は、生徒の勉強は性格のための試練であって、知性のためのものではないという結論に達する。それが綴り方であろうと、訳読あるいは計算であろうと、重要なのは気分に打ち勝つことであり、意欲することを学ぶことである。」(アラン 『教育論』 p.85)

というのも、<そういう意識で日本は教育などしているだろうか?>と思うからです。
もちろん、そういう教育こそ必要だと私は思うのです。

意欲というものを失ったような若者はあなたのまわりに結構いるんじゃないでしょうか?
いや、若者だけではないでしょう。

アランは、

「考えるとは意欲することなのである。」(アラン 『幸福論』 フランス語原文 p.91)

とまで言っています。

自分を決めつけて、意欲できないようにしてしまっている人さえ、見かけるでしょう。
次のような人です。

「まず自分を信じないのに何事かを企てるというのは、明らかに狂っている。意欲できると信じないで意欲すること、自分に対して大きな誓いを立てないで意欲することは、決して意欲することではない。自分が弱くて浮動することを予見する人は、既に弱くて浮動している。」(アラン 『思想と年齢』 p.93)

オプティミスムが意志の所産であることは、アランの主張の中でも多くの人が共感するところでしょう。

「あまり注目されていないことだが、オプティミズムが意志の所産であるのに対し、ペシミズムは人間が意欲を喪失したさい、直ちに陥る自然な状態である。その深い理由は、いい加減な思い付きを厳しく監視し、自己に誓いを立て、順序だてて行動する自己統御こそが、あらゆる幸福の源泉であると共にその条件だからである。人間は身体の動きに流されてしまうと、自分がどれほど陰気な自動人形に堕してしまうか、十分自覚していないのだ。」(アラン 『裁かれた戦争』 p.122)

対象をきちんと認識し、それを用いること。
これは大事です。
「思考し意欲する術は、航海の術に似ている。人間は大洋より弱いにかかわらず、横断に成功する。波や流れを利用するのだが、彼の望むがままに利用するのではない。流れや波の望むがままにでもない。」(アラン 『人間論』 p.30)

<なんでこんな世に生まれちゃたんだ! 別に生まれたくて生まれてきたんじゃないやい!>
なんて思う人もきっといるでしょうが、

「人は生まれることを選ぶわけではなく、もちろん自分の両親を選ぶわけでもない。それで、よい意欲、正しい意欲は、ここから出発して、出てくるものを伸ばすことにある。」(アラン 『人間論』 p.135)

という言葉もありますよ。
タグ:意志
posted by masaccio at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする