2006年12月28日

説得力のあるもの

私たちはいろいろな考えを抱くものですが、そのなかで「最も陰気で、恐ろしく、絶望的なもの」こそが、最も説得力を持っているとアランは言います。(白井茂雄訳 『裁かれた戦争』 p.122)

「自己恐怖の感情は、自己嫌悪の感情同様に、説得力がある」とも(同じ箇所)。

それは「機械的に動かされる心理状態」なのだというのです。

要するに、そういうものは放っておけば私たちを支配してしまう。
情念というものがその典型でしょう。

それにあえて対抗するためには、<機械的に動かされない>状態に達しなければなりません。説得力を持っているものに、それにもかかわらず、反対してみる必要があるということでしょう。

デカルトの、いわゆる「方法的懐疑」はそういうものだったのでしょう。
<疑わしいから疑う>のではなくて、<あえて疑ってみる>わけです。

簡単ではありません。
タグ:説得
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2006年12月25日

顔色が悪いなんて相手に言わないこと

「人に向かって、決して、顔色が悪い、などと言ってはならない」とアランは幸福論の中で書いています。

どうしてでしょう?

そう指摘されると、そのように演じるというか、そういう通りになってしまうからなのでしょう。

例えば、「お前はバカだ」と言われ続ければ、「そうなのかな?」と思ったり、「どうせそうですよ。」ということになってしまう。

何か過ちを犯したときに、「俺はバカだからどうしたってこうなるのさ。」みたいな考えに取り込まれていく。それをさらに人から言われると、もうそう信じてしまう。

「子供はむろんのこと、大人でさえも、過ちを犯すとそこに宿命を読み取ろうとする傾向があまりに強い。さらに、審判者の権威がそこに加われば、人々は自分に絶望してしまうし、自分がこういう人間であると他人が信じ、自分でも信じている姿を、夢中になって表す。」
こうアランは書いています(アラン著作集1 『思索と行動のために』 p.263 白水社)。
タグ:顔色
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2006年12月23日

自殺について

自殺が非常に話題となった一年でしたね。

いじめが大問題であることは確かです。

ここでは、中学生とか高校生とかいうことでなく、一般的に考えてみます。

アランの『人間論』に「生きる勇気は死ぬ勇気よりまれなのだ」という言葉があります。
当たり前のような言葉ですが、私には結構いい言葉に思えました。

また、諦めて、自暴自棄になるということは、人からいじめられなくても、
あるものです。
<取り返しのつかないことしてしまった>という思いから、
自分を許せないなんていうこともあるでしょう。
そんな場合を念頭に置いたアランの言葉があります。

「我々の過ちは、我々が身を投げ出して意志を新たにするならば、
すべて許され、忘れられるものだ。」というもの(『思索と行動のために』)

それから思い出したのは、ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスの言葉。
正確な引用ではありませんが、彼の『自省録』に
「身体がまだ音をあげていないのに、心が音をあげるなんて意気地のないことだ」
という意味の言葉があったはずです。
この本は自分に鞭打つために彼が書いたものです。彼の頭を自殺がよぎった
んでしょうね。
自分では皇帝になんてなりたくなかったのかも。

アランに次のような言葉もあります。
「自分の外へ飛び出したりしてはならない。
マルクス・アウレリウスは、帝位を擲ちはしなかった。
つまり、軽蔑する術を知っていたのである。」(『思想と年齢』)
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2006年12月18日

思考にはある程度の寒さが・・・

思考にはある程度の寒さが必要だ、とアランは『人間論』で書いています。

デカルトから一番多くを学んだと言われているアランが、まさにデカルト念頭に置いて記した言葉でしょう。炉端における6日間の省察のことです。

「デカルト的な思考よりももっと透徹しもっと真実である自然な思考があるという考え」は破壊的だと言っています(『イデー』のなかで)。

もちろん、言わば<自然に反して>導入される、いわゆる「方法的懐疑」のことを考えているのです。そういう自然に身を委ねてしまえば、思考も狂気も区別さえできないというのでしょう。

では、温かい地域では話はどうなるのでしょう。

実際、デカルトに最初に全面的な反旗を翻したのは、温暖なイタリアはナポリの哲学者・修辞学者のヴィーコでした。ヴィーコの叙述方法が、デカルト的な明晰さを持っていないことは一読すればわかります。
でも、明晰判明さを求めてデカルトがふるい落とした事柄を、それは保存しているからなのではないでしょうか。

ヴィーコの営みは「思考」ではないのでしょうか?
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2006年12月12日

もう一度信じること

人間を信じるべき理由も沢山あるが、人間を信じるべきでない理由も沢山ある。だけど、春というものについては、それを信じるべき理由しかないとアランは『神々』という本の中で書いています。
これが生きるということだと。
一日の始まり、そして季節のめぐり、それに敬虔な気持ちで対することだというのでしょう。

それは、もう一度信じることだとも、書いています。

もうすぐクリスマスですが、ご存じのように、クリスマスは古い冬至のお祭りが起源です。冬至とは、一日の昼の時間がこれ以上短くはならないことを意味しているでしょうし、来るべき春を約束しているのです。

キリストは、そういう約束を「信じること」の動きの中に、位置づけられたのでしょうね。

「英雄や神の死と復活は、春の回帰と結び付くことになる」とは、アランの『思想と年齢』の中の言葉です。

「春を単にその自然の効果によって考えるのは、まだ考えることではない。それ〔考えること〕は、待つこと、身構えること、幸福となることである」とも、同じ本で書いています。
タグ:信じること
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2006年12月11日

自分自身について考えること

自分自身を考えることは、時として、危険です。
特に、<自分自身のことしか考えられなくなっているとき>には、そうでしょう。

アランは、そういうときにあるのは、倦怠、悲哀、不安、焦燥といったものだ、と書いています。

そういえば、パスカルが、あのキリスト教の護教論の草稿、つまり『パンセ』の中で、頻繁に倦怠について述べていました。
きっと、数学だけでなく、自分自身のことに目が向いたのでしょう。
そうしたら、自分が(そして人間が)「悲惨」であることに気づく。
しかし、悲惨だけではないことにも気づく。
キリストにおいて、「偉大」と「悲惨」を同時に見て取る。
そうやってキリスト教にのめり込んでいるわけですね。

それに、刑罰における禁固刑の重さもここに関わっているかな。
独房の中では、恐らく、否応なく、自分自身に目は向くでしょうからね。

タグ:自分自身
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2006年12月03日

考えるということ---他人と私

考えるとは、他人の思考に注意を払うことだとアランは言います。
他人の思考の中に自分を認めようとすることだ、と。

考えるとは共通の精神に参加することだ、とも。

誰かが何かを発言する。
私はそれについて考える。
疑問が生じる。
どういうことなのかを、<自分で考えて>、質問する。
相手は、自分の発言を吟味してくれたことを喜びつつ、
私の理解との差違をさらに発言する。
両者の理解が深まる。
人間としても、話題としても。

そこにこそ、他人も、共通の精神もあるのではないでしょうか?
タグ:他人
posted by masaccio at 23:05| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

考えるということ---後悔することではない

考えるということは、どういうことなのだろうか?
いろいろなことを言えそうです。

アランは、考えると思い直すことであって、後悔することではないといっています。
当然、こういうからには、考えているつもりで後悔している人がいくらでもいるということでしょうね。後悔している人は、自分で後悔したくて後悔しているわけではない。後悔してしまうわけです。つまり、意図的に後悔する人はいない。後悔に意志は必要ない。放っておけば、後悔してしまうわけです。
しかし、思考は違うでしょう。
思考には意志が必要です。意志して、自分を統御して、初めて思考というものが成り立つのではないか?
『幸福論』の中で、アランは、考えるとは意欲することなのであると言っているのも、そういうことなのでしょう。

本当の意味で「考える」ということは、自分の考えを統御することなのでしょう。
タグ:思考の訓練
posted by masaccio at 22:57| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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