2007年02月23日

カーテンの美

カーテンが窓にしてあって、その一部がカーテン留めのベルトで絞り込まれているシーンがありますよね。

そうすると、カーテンはそこで言わばつり上げられて、その両側にはきれいな曲線が現われる。

そんなことについてまでアランは哲学しています。「垂れ布」という言い方で。

「垂れ布
そこには、持ち上げようとする人間の仕草と、疲れを知らぬ重力がすぐさま効果を発揮してそれを自然の法則に組み込むのとが、同時に現れます。」
(アラン 『芸術についての二十講』 p.144)

しかもこのことを、悲劇と喜劇の衣装にまで応用して考えます。

「垂れ布が悲劇にこそふさわしいものであることも解るでしょう。なにしろそれらは外部からの支配的な力、押し退けても襲いかかって来る力をかたどっているからであり、これに対して喜劇俳優は、体にピッタリした服を着て身軽に動きまわることができる。」(同書 p.146)

確かにギリシア悲劇なんかの舞台を思い出してみると、例えば『オイディプス王』とかの衣装は、長くゆったりと布が垂れているみたいだし、喜劇の、例えばイタリアのコメディア・デラルテのアルレッキーノなんか、ピエロみたいにピッタリの衣装だなあ、なんて思います。
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posted by masaccio at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

病気について

<病気になったら、病気について哲学しなさい>、といった人がいます(誰だったっけ?)。

アランもまた病気という言葉を結構使うんです。

例えば、

「苦悩とは最悪の病気であり、知恵を欠いた人間は、それとは気づかずにこれを持っているものだ。彼らは、苦悩のどん底にない場合でさえ、至るところ不機嫌であり、何よりも、生き生きとして感動を恐れている、なぜならたちまちそれは情念と化すからだ。」(アラン 『思索と行動のために』 p.409)

「苦悩のどん底にない場合でさえ」という箇所が重要な感じがします。
実際よりも事態を悪くする傾向に身を委ねているという意味で。

そういえば、こうした<実際よりも事態を悪くする傾向に身を委ねる>ことについて、アランは次のようにも書いていました。

「けちな頭には狂乱があり、一種の反逆があり、また、自発的な地獄落ちともいうべきものがある。」(アラン 『人間論』 p.250)

「誰もがすぐに自分を断罪してしまう。」(同書 p.251)とうわけでしょうね。
ラベル:病気
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悪趣味について

「悪趣味とは恐らく装飾するために装飾したいという情念にほかならない。」(アラン 『諸芸術の体系』 p.249)

これはそうだと思うなあ。

私が古いのかも知れないけど、例えば、「ネールアート」なんて私には悪趣味に思えるんですがねえ。

まるで牛みたいに鼻にリングをつけてる奴とかも。
ラベル:趣味の良さ
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2007年02月12日

人間というものの美しさ

幸福というものについて考えるときに、そもそも人間に絶望せずに、美しいと思えるかどうかということは大きいように思います。

この点でもアランはいろんな言葉を残しています。

例えば、

彫像作者にとってのモデルはギリシアの彫像ではない、それは人間である。ギリシアの競技者は一つの完全な解決だが、しかし人間の数だけ多くの解決があるに違いない。もう一度ゲーテを引用しなければならない。「すべての人間はその場所において永遠である」と。よろしいか、すべての人間は、だ。もしも諸君が本質を見いだすならば、もしも諸君が人間をまっすぐに立たせるものを見いだすならば、決して醜いものはない。
(アラン 『芸術について』 アラン著作集5巻(旧版)p.223)

この文章、かなり好きです。
昔はかなり人間というものにガッカリしていて、ニヒルな雰囲気を好んでいたんですが、<もう少し人間を信じてみようかな?>という気になったのは、アランの影響も大きいかな。

また、先日書きこんだ「音楽と体操」に関わる次の文章もいいですよ。

闘技士の像は、音楽と体操とによって、すべての精神状態が、肉体の中に流れ込み、そうして、肉体の形式と調和している、という状態を、表しているのである。だから、切り離された魂などというものは、もはや、そこにはない。その形式は不滅で、神々しい。(アラン 『美学入門』 p.198)

こういう文章を頼りにいろいろ考えてみることほど楽しいし、元気になることはありませんね、少なくとも私にとって。

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2007年02月06日

音楽と体操って言うけど・・・

情念との関わりでの「音楽と体操」って、わかりにくいですかね?

もう少しアランの言葉を追っておきましょう。

「要するに我々は情念によって病気を悪化させる。それが本当の体操を学ばなかった人達の運命である。そして本当の体操とは、ギリシア人たちの理解したように、肉体の運動(mouvement)に対する正しい理性の支配のことである。」
(アラン 『幸福論』 宗左近訳 p.15)

この支配という部分は「統御」と訳した方がいいかもしれないんだけど、とにかく、普通は心の問題として捉えられている「情念」というものは、身体の動きが心を支配してしまうために起こり、かつ嵩じるものだと考えられています。だから心は「受動」(passion)なのだということ、この支配関係をむしろ逆転する(つまり「肉体の運動に対する正しい理性の支配(ないし統御)」)ために、随意筋を動かすことが必要なわけです。それは、一般的にいうなら「体操」なわけですね。

音楽もそういう体操と考えることができそうなのです。

「私は、プラトンが音楽を一層微妙で力強い体操と見る理由を理解した。美しい生活は、だから、美しい歌のようなものであろう。」(アラン 『思想と年齢』 p.394)

音楽、特にわかりやすいのは歌、歌手の姿かも知れません。
次の言葉は、素晴らしいものと思います。

「歌は、人体という建築が救われたことを表現し、まっすぐに立った、気品のある体型を表現している。本当の歌い手には、神のような立ち姿が、きっと認められるものだ。自分を同じ状態に保ち、自分を模倣し、自分に聞き入っているこの叫びは、何と力強いか。これは、思い通りに開始し、変転し、元に帰り、そして終結する叫びなのだ。」(アラン著作集8 文学折に触れて p.15)
ラベル:音楽 体操
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2007年02月04日

情念とどう付き合うか

アランは「情念(passion)」の哲学者だと言われます。

恐らく、自分でも情念に苦しめられたのでしょう(誰でもそうでしょうが)、それをどう扱ったらいいかをしばしば書いています。

例えば、怒り・恋・悲しみ・苛立ち・焦燥なんていうのを例に挙げてみるといいんですが、そういうときに自分はどんな風に振る舞っているかを、後からでいいので、冷静に振り返ってみるといい。殆ど反射的に、つまりしっかりと批判的に考察してではなく、行動していたのがわかるでしょう。つまり、物体が衝突すると跳ね返るみたいに、反射的に人が動くときもあるわけです。機械的(メカニック)な動きです。

こうしてアランは次のように記します。

「デカルトは、彼の気分の中では彼はメカニックなものでしかないということを選択する。そしてこう定めたことによって、私たちの情念は事物の領域に帰せられる。」
(『イデー』 pp.165~166)

気分というものに流されているときは、自分はメカニックなものでしかないと「選択する」、つまりそのように決断するわけです。だからこそ、それは事物的な振舞いなんだという了解に達します。そういう前提においてこそ、物を操作するようにして、情念を操作するというスタンスも取りうるわけなのでしょう。

でも、どうやって?

それをアランは、「音楽と体操によって」と言っています。
ラベル:情念
posted by masaccio at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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