2007年03月29日

拒否すること

思考と拒否とが密接に関わっている、というと不思議に思うでしょうか?
しかし、思考するとは、差し出されたものを吟味することです。
なあなあで受け入れてしまったり、面倒くさがったりしていては思考は消えてしまうのです。
無意識になる、いや、<気を失う>とでもいう事態が生じるのです。

アランは簡潔に次のように書きます。

「思考するとは拒否することだ。」(アラン 『宗教論』 p.157)

そしてそれは次のようなことでもあります。

「思考とは意志的なものであることを知ることが必要だ。」(アラン 『思索と行動のために』 p.169)
「実は、意志的なものでない意識などというものはなく、また意志的なものでない思想などというものもない。」(アラン 『神々』 p.142)

また「怒り」について考えてみましょう。
怒りは「恐怖の結果として自然に生じる」とアランは言います。
そうだとすると、些細なことにでも恐怖を抱く人は、自然に、容易に、怒りを抱くということもわかるでしょう。
「臆病な人たち」とは、そういう人たちなわけです。

「臆病な人間は、他人との交際で、すべてを聞き、すべてを取り集め、すべてを解決したがる。」(アラン 『幸福論』 p.77)

もちろん、<他人は私についてどう言っているのか?>、<悪口を言われているのではないか?>などといった取り越し苦労(これも恐怖でしょう)が、怒りを生みだすのです。
<気にしない>ことができないのです。

「私がしばしば考えたところでは、情念に駆られた不正な愛と解される人間嫌いは、多くは、人の言う言葉を気にしすぎることに基づいている。」(アラン 『わが思索のあと』 p.240)

だからこそ、<気にしないこと>を訓練しなければならないでしょう。

「処世術の秘訣は、礼節をつくしながら何も考えないこと、他人がそれを何と思おうと気にしないことである。」
(アラン 『感情・情念・表徴』 p.200)

この<恐怖から怒りへ>の道筋・メカニズムを理解することによって、その移り行きを<拒絶する>か、
それができないにしても少なくとも<統御する>必要があるでしょう。

「情念の本当の原因を知らない限り、人間は情念に対して全く無力」(アラン 『幸福論』 p.10)なのですから。
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儀式というもの

儀式というと、形式張っていて御免こうむるという人も多いのでしょう。

ただ形式が内容を救うということもあるのかもしれない、といったことは考えてみた方がよさそうです。

次のような言葉があります。

「凡そ儀式の身振りは決して烈しいものでもなければ、予見されないものでもない。」(アラン 『神々』 p.136)
          
振舞いが穏やかで予想されるものであること、それは人を落ち着かせるでしょう。
その儀式に積極的に参加する者は、その落ち着きを自分のものとして手に入れるでしょう。
情念に揺り動かされていた者は、それから、ある程度、救い出されるでしょう。
要するに、外面的なものが内面を救うのです。

アランは、
「結局のところ、情念に勝つのは外的な秩序だけである。」(アラン 『イデー』 p.338)
とまで言っています。

「内面の平和は外面の平和を必要とする。」(アラン 『人間論』 p.33)、とも。

一人では容易に手に入れられないような落ち着きも、集団がそれを助けることによって手に入れうる場合があります。
だからこそ、アランは次のように言いのでしょう。

「儀式は集団的な礼儀である。」(モーロワ 『アラン』 p.83)

芸術にもこのことは関わってきます。

「詩、散文、美しい言語は、また儀式である。」(アラン    『神々』 p.135)
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2007年03月22日

判断と情念

判断とは、放っておいても生じるものなのでしょうか?

多分違うでしょう。

アランは判断の重要性についても語っています。
そこには意志が関わってくるという点が強調されます。
しかもそれが情念との絡みにおいてであることを心しなければなりません。

「外界の驚異を追い求め、何一つ見落とさないよう細心の注意を払うよりも、さまざまな情念から、つまり感動的な意見から身を守るべきだとされる。こういう掟は経験よりもむしろ意志に由来し、実際にはほとんど行われない。そういう掟を人々はあるがままには捉えないからだ。それは適切に言えば、判断と呼ばれ、道徳的秩序に属する。情念の落し穴と言葉の安直さを充分に知ったものでない限り、判断の価値を感知し得ない。これを要するに、精神が抵抗し拒絶することが必要だ。」 (アラン 『思索と行動のために』 p.161)

情念に翻弄されている場合には、判断など下せない。
認識というものを手に入れていると考えていても、それは判断にはまだ足りない。
上の引用の最後にあるように「精神が抵抗し拒絶する」には意志が必要なのです。
怒っているときは(つまり怒りの情念に翻弄されているときは)、自分の<認識>を疑ってなど、たいていの場合、いないものです。
自分の怒りは正当であるとしつつ、すべての<論理>を組み立てます。
怒りに抵抗し拒絶などしていません。

こういった一連の事柄を考えさせてくれる引用をいくつかしておきましょう。

「正しく判断するには魂の偉大さと同時に気高さが是非とも必要だと私は言いたい。」 (アラン 『思索と行動のために』 p.256)

「その各瞬間に「神」であること、「判断」とは、かようなものである。」 (アラン 『ラニョーの思い出』 p.57)

「種々の意見が絡み合って作られている人間界の事象の場合は、真実は確認されるものではなく、作り上げられるものだということである。だから認識するだけでは十分ではない。判断という美しい言葉の持つ最上の意味で、我々は判断を下さなければならない。」 (アラン 『裁かれた戦争』 p.135)

「誰でも知っていることだが、怒りとか、愛とか、野心とか、吝嗇とかの情念は、思考の調子が狂うところに成立する。人はもはや思考を検討せず、導きもせず、ただ信じ込み、後を追って行くだけとなり、思考は進展しなくなると同時にすべて茨のように刺々しくなってしまう。」 
(アラン    『芸術について』[白水社アラン著作集旧版第五巻] p.36)

ラベル:判断
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2007年03月14日

人間と動物

デカルトに大きな影響を受けているアランですから、二元論的な議論を展開することがよくあります。

そして人間と動物とを区別するときにも、そういう議論を展開するのです。
次のような言葉があります。

動物にとっては何ものでもなく人間とっては一切である卑怯ということは、行う意志のあることを行わぬこと以外にどんな事を言うのであろう。だから、本来人間のものである自己超越と脱皮とがある。私は魂を身体から分離せねばならぬと言った。人間を動物から分離せねばならぬと言ってもおなじことである。(アラン 『我が思索のあと』 pp.286-287)

「行う意志のあることを行わぬ」というのはどういう場合なのでしょう。

意志が無効にさせられる時でしょう。

では、どういうときには無効になるのでしょうか?
確かに「卑怯」と言われるものがその典型としてあげられているのは解るのですが、もう少し一般化した議論も可能なのではないでしょうか?

やはりここでも人間が情念に囚われたときというのが、その一般的な在り方なのでしょう。
以下の資料はその参考のためのものです。
実を言えば、人間の身体(肉体)は機械であり、また動物は徹頭徹尾機械であるというのが、デカルトの「動物機械論」で、アランはそれに理解を示しています。
人間の身体は機械なのであるとデカルトははっきり断言します。
(人体を、・・・・・一つの機械とみなす。 デカルト 『方法叙説(中公文庫)』 p.68) 
そして人間も情念に囚われたとき、動物と同じように機械になってしまうのだとアランは考えています。
なぜなら、そこでは動物と区別される意味での人間に特有なもの、つまり「思考」がうまく働かないからです。
ただし、この場合、「思考」とは厳密に取られなければなりません。
次のように、

要は、思考という立派な名称を、魂の刻印を持つものだけに留めておきさえすればいい。こうして、我々の秩序立った認識は思考に属する。我々の選択され、同意され、磨かれた愛情は、思考に属する。我々の決意や誓いは思考に属する。これに反して、気分の動きは断じて思考には入らない。本能の反応は断じて思考には入らない。疲労も思考ではない。
(アラン 『思索と行動のために』 p.382)

さらにいくつか、資料を掲げておきましょう。

全世界はいわば我々の上にのしかかり、ついには、一緒に知覚された跳ね上がりや身震いなどの我々の運動と区別できなくなる。こうして、最初外部の光景であった嵐は、やがて我々の戸口を脅かし、ついには我々の内なる嵐となる。ただ、それは筋肉の嵐、すなわち、戦慄、恐怖、敗走、堕落、手を握りしめること、咳、嘔吐、叫びである。冷静な目撃者には、この男は、自ら動く動物機械に過ぎない。(アラン 『思索と行動のために』 p.260)

まったく道理の通っていない言葉や、上辺だけ辻妻を合わせた言葉、それは情念の働きなのである。いみじくも名付けられた情動が筋肉の間を駆け抜けるや否や、人間の肉体という機械はたちまち、震えたり、走り出したり、許しもなく動悸を打ったりする。そのため、叫び声をあげたり、何の意志もないのに記憶の襞に従って言葉を口走ったりする。(アラン 『感情・情念・表徴』 p.216)

情念はすべて高邁なものとなるであろうが、それは自らを救おうとする絶えざる活動を通じてであり、この活動がなければ、興奮した人間は動物に過ぎないことをみとめねばならない。(アラン 『我が思索のあと』 p.287)

人間は考える。そして自分自身の動物性に服従することに甘んじない。ここからして、あらゆる病気を複雑にする激情が生まれる。そこから人間が癒えるには、魂の偉大さによるほかはない。(同書 p.298)
posted by masaccio at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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