2007年04月28日

批判とディベート、そして会話

ディベートっていうのは、もう35年以上も前に初めてやりました。
大学に入ったばかりのとき、いわゆる勉強会をやるサークルに入っていたのです。
そこで、やった。
初めから嫌いでした。
なんだか、自分の本心とは別に議論に勝つ技術ばかり磨くのは性に合わなかった。
まあ、確かに、世の中、議論に勝たなきゃ悔しい思いをしたりするんですけどね。

批判して議論に勝つ、それがディベートなんでしょうね。

そんな会話は、アランが次のように書くような進み方をするんでしょうね。

「会話は、暴君的な法則をもっているものだ。」(アラン 『美学入門』 p.110)

でも、そんなことより私は会話を楽しみたいなあ。

楽しみための会話にも注意すべき点があることの指摘もアランは忘れていません。

「長年にわたってサロンをひらいていた、さる貴婦人が、私にこういったものだ。『会話を生き生きとはずませるためには、遊び半分に反論するよう心がけることが必要です。ところが、そんなことをしていた日には、判断力を狂わせてしまうのです』と。この言葉は、人が考える以上に真実である。しかしながら、このことを認める人は少ない。それほど、交際の楽しみというものは、大きいものである。」(同前)

さて、何を会話では話したらいいんでしょうか?
次のようなことかもしれませんね。

「会話ということについてスピノザは忠告する。人間の隷属状態だとか、弱点だとか、悲しみだとかについては控え目に、反対に力だとか、喜びだとかについては、存分に話すがいい、と。」
(アラン 『思索と行動のために』 p.372)

そして会話の相手に優越感をもったところで何の意味もないのではないでしょうか?

「私は精神に話しかける。それになんどか話しかける、深く眠った人にたいするように。精神は夢の中で私に答え、見当違いの答えをする。もし君が会話の浅い楽しみしか求めないのであれば、この試験は君に優越感を与えるに足りる。だがその優越感は、眠っている人を揺りおこしてみない限り不確かだ。これは神様かもしれぬ、神様がぼくをからかっているのかもしれぬ、とこう考えるがよろしい。精神に思いをいたすやいなや、優越感は消える。」(アラン 『人間論』 pp.261-262)

ソクラテスは、そうやって対話の相手を揺り起こしてみようとしたんでしょうね。
タグ:ディベート
posted by masaccio at 15:00| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月12日

批判とかの続き

批判について、先日、書いたんですが、それとの関連でブレーンストーミングを思い出しました。

アイデアを出して、それをまとめ上げるときに使うあれですね。

その実行原則の一つとして、「批判をしない」みたいなのがあったと思います。
批判しないで、むしろ発言を発展させるという感じでしたね。

これは結構大事だと思います。

<批判するよりは救い出す、ないし助ける>わけでしょう。

自分に対しても、批判ばかりして追い込んでも仕方がないんじゃないのか・・・。

例えば、

「自己自身に対する一種の義務としてすでに最善のものを救うべきであり、他のことは出来れば忘れるようにしなければならない。そして私の考えたところでは、これこそ真の悔悟なのだ。これに反して、無益な後悔は自己の亡霊のなかに成立するものである。」
(アラン 『わが思索のあと』 p.304)

なんていう言葉もあります。

また、次の言葉もちょっといいですね。

「私たちの意志は、どんなに合理的な意志であっても、まったく合理的でなかった選択からできる限りのものを救うことに、常に執心するものである。」
(アラン 『イデー』 p.112)

文章を書くときにだって、こういうことは言えそうですよ。

「すべての選択は既になされている。ここでは、自然が私たちの先を越しており、ほんの些細な事柄においてもそうである。なぜならば、ものを書くとき、私は語を選ぶのではなく、むしろ、自然の動きを解き放つことに注意しながら、既に始まっているものを継続するからであり、これは、変えるというより、むしろ救うことである。」
(アラン 『思想と年齢』 p.338)
posted by masaccio at 22:34| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月08日

助けるということ

助けるということ、それも自分以外の人を助けるということ、それは結構難しいことだと思う。

これについてもアランは示唆的な言葉をいくつか残している。

自分がきちんと立っていないのに、人を助けることなんて、まず出来ない。

「私が他人を助けるとしたら、それは自分自身を支配することによってであり、ほかに方法はない。」
(アラン 『宗教論』 p.195)

それに、<助けられる>と普通言われる方の人だって、実際には次のようなことなのだろう。

「私は君を助けるだろう。だが、君を助けるだろうものは、君自身である。というのも、自由な人はただ自由な人をしか愛することはできないから。」
(アラン 『神々』 p.264)

だからこそ、次のような指摘ももっとものことのように思えてくるわけだ。

「義人に出会う度毎に、人は義人の内に愛することや助けることへのある種の拒絶を認めて、少なからず驚く。目に見えない秩序、そのままで普遍的な秩序に向けられた義人の視線がそういう拒絶を表しているのだ。」
(アラン 『宗教論』 p.196)
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批判とか、非難とか

今日は、批判とか、非難とかについて書いてみたい。

批判ていうのは、必要なものと考えられている。
<何に?>って、社会生活や学問の世界や、どんなところでも。
もちろん、そうでしょう。
そもそも批判とか非難とかを意味するフランス語はcritiqueで、そのギリシア語の語源はクリノーという言葉で、「分ける」という意味をもっている。
良いものと悪いものとを分けるといった場合を考えてもいいし、カントの『純粋理性批判』を思い出して、可能的経験とそうでないものを分けるなんていう場合を考えてもいい。

ただ、問題はアランが次のようなことを言う点を、どれだけ人が考慮するかだと思う。

「何事かを、あるいはだれかを批評する人の内には---たとえ正しい批評であっても---何か苦いところがありはしないか、気をつけて聞くがよい。なぜならば、これこそ最悪の徴だからである。」
(アラン 『人間論』 p.266)

「現代に共通の謬見の一つ、----- そしてこれは、むしろ忘恩の時代と呼びたい批判の時代の名残なのだが ----- それは、観念が真であるとすることである。四分儀や経緯儀が真であるかどうか考えてみる方が、まだしもよかろう。なぜならば、これらは、よりよく把握するための道具だからであり、実は私たちのすべての観念も、同様に、よりよく把握するための道具なのである。」
(同書 pp.94-95)
posted by masaccio at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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