2007年10月21日

思想の記憶・言葉の記憶

アランに次のような言葉があります。

「人々は、石工が石を扱うように、さまざまな思想を置きっぱなしにできるものと思いがちだ。しかし、思想を記憶するというようなことはあり得ない。あるのはただ言葉の記憶だけだ。」(アラン 『思索と行動のために』 p.289)

記憶できるのは、言葉といった音や形の領域に属するもの、働きとしての思考・思想は記憶などできないのだというのです。ざっくり言ってしまえば、物質的なものは記憶できるかもしれないが、精神的な営みは無理だと言いたいのでしょう。

そうした営みは、その都度、初めからやり直さなければならないというわけです。

厳しい考え方です。

だからこそ、次のようにもアランは言うのです。

「学者もまた、過去の知識をいわばはぎとられる。それを着込むなら、慢心から虚栄心へと投げ帰されるのだ。学問をして、行く先々でほめられ、もてはやされた人間の自惚れこそは、途方もない愚かさの一源泉である。虚栄心は慢心に対する罰であるともいえよう。慢心が頭をもたげて、人より旨くやれるという自身を持とうものなら、すぐ最低水準に落ちるのである。根をつめて仕事をした人々はみな、何事も獲得しおおせるものではなく、征服してはまた征服し直さなければならないのだということを感じている。或る老齢の賢者は、もう休息の権利を持っていたにかかわらず、難しいことが問題になったとき、言ったものである、『昔は私もそれを理解したのだが』と。」(アラン 『人間論』 p.221)
posted by masaccio at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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