2007年03月22日

判断と情念

判断とは、放っておいても生じるものなのでしょうか?

多分違うでしょう。

アランは判断の重要性についても語っています。
そこには意志が関わってくるという点が強調されます。
しかもそれが情念との絡みにおいてであることを心しなければなりません。

「外界の驚異を追い求め、何一つ見落とさないよう細心の注意を払うよりも、さまざまな情念から、つまり感動的な意見から身を守るべきだとされる。こういう掟は経験よりもむしろ意志に由来し、実際にはほとんど行われない。そういう掟を人々はあるがままには捉えないからだ。それは適切に言えば、判断と呼ばれ、道徳的秩序に属する。情念の落し穴と言葉の安直さを充分に知ったものでない限り、判断の価値を感知し得ない。これを要するに、精神が抵抗し拒絶することが必要だ。」 (アラン 『思索と行動のために』 p.161)

情念に翻弄されている場合には、判断など下せない。
認識というものを手に入れていると考えていても、それは判断にはまだ足りない。
上の引用の最後にあるように「精神が抵抗し拒絶する」には意志が必要なのです。
怒っているときは(つまり怒りの情念に翻弄されているときは)、自分の<認識>を疑ってなど、たいていの場合、いないものです。
自分の怒りは正当であるとしつつ、すべての<論理>を組み立てます。
怒りに抵抗し拒絶などしていません。

こういった一連の事柄を考えさせてくれる引用をいくつかしておきましょう。

「正しく判断するには魂の偉大さと同時に気高さが是非とも必要だと私は言いたい。」 (アラン 『思索と行動のために』 p.256)

「その各瞬間に「神」であること、「判断」とは、かようなものである。」 (アラン 『ラニョーの思い出』 p.57)

「種々の意見が絡み合って作られている人間界の事象の場合は、真実は確認されるものではなく、作り上げられるものだということである。だから認識するだけでは十分ではない。判断という美しい言葉の持つ最上の意味で、我々は判断を下さなければならない。」 (アラン 『裁かれた戦争』 p.135)

「誰でも知っていることだが、怒りとか、愛とか、野心とか、吝嗇とかの情念は、思考の調子が狂うところに成立する。人はもはや思考を検討せず、導きもせず、ただ信じ込み、後を追って行くだけとなり、思考は進展しなくなると同時にすべて茨のように刺々しくなってしまう。」 
(アラン    『芸術について』[白水社アラン著作集旧版第五巻] p.36)

ラベル:判断
posted by masaccio at 23:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
アランを本当によく読まれてますね。私もアランには深い敬愛の念を持っています。アランは若き日の私に生きるための翼を与えてくれました。所有する関係書もほぼ同じですね。私をアランに導いたのは小林秀雄でした。これからもがんばってブログを続けてください。
Posted by 昔のバロック少年 at 2007年03月25日 22:08
「昔のバロック少年」さん、コメントをありがとうございました。
私にとって、アランは一番好きな哲学者といってよい人物です。
多分、一生読み続けるでしょう。

本当は、アランが「才能があろうと無かろうと一日二時間書きなさい」といったことを念頭に置いて、毎日このブログを書きたいのですけれども、そこまでの時間は無いのが残念です。

まあ、力を抜いて(アランはそのこともすすめていましたね)、続けたいと思います。

今後ともどうぞよろしくお願いします。
Posted by masaccio at 2007年03月25日 22:36
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