2007年03月14日

人間と動物

デカルトに大きな影響を受けているアランですから、二元論的な議論を展開することがよくあります。

そして人間と動物とを区別するときにも、そういう議論を展開するのです。
次のような言葉があります。

動物にとっては何ものでもなく人間とっては一切である卑怯ということは、行う意志のあることを行わぬこと以外にどんな事を言うのであろう。だから、本来人間のものである自己超越と脱皮とがある。私は魂を身体から分離せねばならぬと言った。人間を動物から分離せねばならぬと言ってもおなじことである。(アラン 『我が思索のあと』 pp.286-287)

「行う意志のあることを行わぬ」というのはどういう場合なのでしょう。

意志が無効にさせられる時でしょう。

では、どういうときには無効になるのでしょうか?
確かに「卑怯」と言われるものがその典型としてあげられているのは解るのですが、もう少し一般化した議論も可能なのではないでしょうか?

やはりここでも人間が情念に囚われたときというのが、その一般的な在り方なのでしょう。
以下の資料はその参考のためのものです。
実を言えば、人間の身体(肉体)は機械であり、また動物は徹頭徹尾機械であるというのが、デカルトの「動物機械論」で、アランはそれに理解を示しています。
人間の身体は機械なのであるとデカルトははっきり断言します。
(人体を、・・・・・一つの機械とみなす。 デカルト 『方法叙説(中公文庫)』 p.68) 
そして人間も情念に囚われたとき、動物と同じように機械になってしまうのだとアランは考えています。
なぜなら、そこでは動物と区別される意味での人間に特有なもの、つまり「思考」がうまく働かないからです。
ただし、この場合、「思考」とは厳密に取られなければなりません。
次のように、

要は、思考という立派な名称を、魂の刻印を持つものだけに留めておきさえすればいい。こうして、我々の秩序立った認識は思考に属する。我々の選択され、同意され、磨かれた愛情は、思考に属する。我々の決意や誓いは思考に属する。これに反して、気分の動きは断じて思考には入らない。本能の反応は断じて思考には入らない。疲労も思考ではない。
(アラン 『思索と行動のために』 p.382)

さらにいくつか、資料を掲げておきましょう。

全世界はいわば我々の上にのしかかり、ついには、一緒に知覚された跳ね上がりや身震いなどの我々の運動と区別できなくなる。こうして、最初外部の光景であった嵐は、やがて我々の戸口を脅かし、ついには我々の内なる嵐となる。ただ、それは筋肉の嵐、すなわち、戦慄、恐怖、敗走、堕落、手を握りしめること、咳、嘔吐、叫びである。冷静な目撃者には、この男は、自ら動く動物機械に過ぎない。(アラン 『思索と行動のために』 p.260)

まったく道理の通っていない言葉や、上辺だけ辻妻を合わせた言葉、それは情念の働きなのである。いみじくも名付けられた情動が筋肉の間を駆け抜けるや否や、人間の肉体という機械はたちまち、震えたり、走り出したり、許しもなく動悸を打ったりする。そのため、叫び声をあげたり、何の意志もないのに記憶の襞に従って言葉を口走ったりする。(アラン 『感情・情念・表徴』 p.216)

情念はすべて高邁なものとなるであろうが、それは自らを救おうとする絶えざる活動を通じてであり、この活動がなければ、興奮した人間は動物に過ぎないことをみとめねばならない。(アラン 『我が思索のあと』 p.287)

人間は考える。そして自分自身の動物性に服従することに甘んじない。ここからして、あらゆる病気を複雑にする激情が生まれる。そこから人間が癒えるには、魂の偉大さによるほかはない。(同書 p.298)
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2007年02月23日

カーテンの美

カーテンが窓にしてあって、その一部がカーテン留めのベルトで絞り込まれているシーンがありますよね。

そうすると、カーテンはそこで言わばつり上げられて、その両側にはきれいな曲線が現われる。

そんなことについてまでアランは哲学しています。「垂れ布」という言い方で。

「垂れ布
そこには、持ち上げようとする人間の仕草と、疲れを知らぬ重力がすぐさま効果を発揮してそれを自然の法則に組み込むのとが、同時に現れます。」
(アラン 『芸術についての二十講』 p.144)

しかもこのことを、悲劇と喜劇の衣装にまで応用して考えます。

「垂れ布が悲劇にこそふさわしいものであることも解るでしょう。なにしろそれらは外部からの支配的な力、押し退けても襲いかかって来る力をかたどっているからであり、これに対して喜劇俳優は、体にピッタリした服を着て身軽に動きまわることができる。」(同書 p.146)

確かにギリシア悲劇なんかの舞台を思い出してみると、例えば『オイディプス王』とかの衣装は、長くゆったりと布が垂れているみたいだし、喜劇の、例えばイタリアのコメディア・デラルテのアルレッキーノなんか、ピエロみたいにピッタリの衣装だなあ、なんて思います。
ラベル:
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病気について

<病気になったら、病気について哲学しなさい>、といった人がいます(誰だったっけ?)。

アランもまた病気という言葉を結構使うんです。

例えば、

「苦悩とは最悪の病気であり、知恵を欠いた人間は、それとは気づかずにこれを持っているものだ。彼らは、苦悩のどん底にない場合でさえ、至るところ不機嫌であり、何よりも、生き生きとして感動を恐れている、なぜならたちまちそれは情念と化すからだ。」(アラン 『思索と行動のために』 p.409)

「苦悩のどん底にない場合でさえ」という箇所が重要な感じがします。
実際よりも事態を悪くする傾向に身を委ねているという意味で。

そういえば、こうした<実際よりも事態を悪くする傾向に身を委ねる>ことについて、アランは次のようにも書いていました。

「けちな頭には狂乱があり、一種の反逆があり、また、自発的な地獄落ちともいうべきものがある。」(アラン 『人間論』 p.250)

「誰もがすぐに自分を断罪してしまう。」(同書 p.251)とうわけでしょうね。
ラベル:病気
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悪趣味について

「悪趣味とは恐らく装飾するために装飾したいという情念にほかならない。」(アラン 『諸芸術の体系』 p.249)

これはそうだと思うなあ。

私が古いのかも知れないけど、例えば、「ネールアート」なんて私には悪趣味に思えるんですがねえ。

まるで牛みたいに鼻にリングをつけてる奴とかも。
ラベル:趣味の良さ
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2007年02月12日

人間というものの美しさ

幸福というものについて考えるときに、そもそも人間に絶望せずに、美しいと思えるかどうかということは大きいように思います。

この点でもアランはいろんな言葉を残しています。

例えば、

彫像作者にとってのモデルはギリシアの彫像ではない、それは人間である。ギリシアの競技者は一つの完全な解決だが、しかし人間の数だけ多くの解決があるに違いない。もう一度ゲーテを引用しなければならない。「すべての人間はその場所において永遠である」と。よろしいか、すべての人間は、だ。もしも諸君が本質を見いだすならば、もしも諸君が人間をまっすぐに立たせるものを見いだすならば、決して醜いものはない。
(アラン 『芸術について』 アラン著作集5巻(旧版)p.223)

この文章、かなり好きです。
昔はかなり人間というものにガッカリしていて、ニヒルな雰囲気を好んでいたんですが、<もう少し人間を信じてみようかな?>という気になったのは、アランの影響も大きいかな。

また、先日書きこんだ「音楽と体操」に関わる次の文章もいいですよ。

闘技士の像は、音楽と体操とによって、すべての精神状態が、肉体の中に流れ込み、そうして、肉体の形式と調和している、という状態を、表しているのである。だから、切り離された魂などというものは、もはや、そこにはない。その形式は不滅で、神々しい。(アラン 『美学入門』 p.198)

こういう文章を頼りにいろいろ考えてみることほど楽しいし、元気になることはありませんね、少なくとも私にとって。

ラベル:
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2007年02月06日

音楽と体操って言うけど・・・

情念との関わりでの「音楽と体操」って、わかりにくいですかね?

もう少しアランの言葉を追っておきましょう。

「要するに我々は情念によって病気を悪化させる。それが本当の体操を学ばなかった人達の運命である。そして本当の体操とは、ギリシア人たちの理解したように、肉体の運動(mouvement)に対する正しい理性の支配のことである。」
(アラン 『幸福論』 宗左近訳 p.15)

この支配という部分は「統御」と訳した方がいいかもしれないんだけど、とにかく、普通は心の問題として捉えられている「情念」というものは、身体の動きが心を支配してしまうために起こり、かつ嵩じるものだと考えられています。だから心は「受動」(passion)なのだということ、この支配関係をむしろ逆転する(つまり「肉体の運動に対する正しい理性の支配(ないし統御)」)ために、随意筋を動かすことが必要なわけです。それは、一般的にいうなら「体操」なわけですね。

音楽もそういう体操と考えることができそうなのです。

「私は、プラトンが音楽を一層微妙で力強い体操と見る理由を理解した。美しい生活は、だから、美しい歌のようなものであろう。」(アラン 『思想と年齢』 p.394)

音楽、特にわかりやすいのは歌、歌手の姿かも知れません。
次の言葉は、素晴らしいものと思います。

「歌は、人体という建築が救われたことを表現し、まっすぐに立った、気品のある体型を表現している。本当の歌い手には、神のような立ち姿が、きっと認められるものだ。自分を同じ状態に保ち、自分を模倣し、自分に聞き入っているこの叫びは、何と力強いか。これは、思い通りに開始し、変転し、元に帰り、そして終結する叫びなのだ。」(アラン著作集8 文学折に触れて p.15)
ラベル:音楽 体操
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2007年02月04日

情念とどう付き合うか

アランは「情念(passion)」の哲学者だと言われます。

恐らく、自分でも情念に苦しめられたのでしょう(誰でもそうでしょうが)、それをどう扱ったらいいかをしばしば書いています。

例えば、怒り・恋・悲しみ・苛立ち・焦燥なんていうのを例に挙げてみるといいんですが、そういうときに自分はどんな風に振る舞っているかを、後からでいいので、冷静に振り返ってみるといい。殆ど反射的に、つまりしっかりと批判的に考察してではなく、行動していたのがわかるでしょう。つまり、物体が衝突すると跳ね返るみたいに、反射的に人が動くときもあるわけです。機械的(メカニック)な動きです。

こうしてアランは次のように記します。

「デカルトは、彼の気分の中では彼はメカニックなものでしかないということを選択する。そしてこう定めたことによって、私たちの情念は事物の領域に帰せられる。」
(『イデー』 pp.165~166)

気分というものに流されているときは、自分はメカニックなものでしかないと「選択する」、つまりそのように決断するわけです。だからこそ、それは事物的な振舞いなんだという了解に達します。そういう前提においてこそ、物を操作するようにして、情念を操作するというスタンスも取りうるわけなのでしょう。

でも、どうやって?

それをアランは、「音楽と体操によって」と言っています。
ラベル:情念
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2007年01月25日

薬か、食べ物か?

「薬は病人にはよいが、人が生き、人が喜ぶのは、食物によるのである。」 (人間論 p.62)というアランの言葉があります。

当たり前じゃないか、といわれるかも知れませんが、ちょっと考えてみてください。
薬として使われるものにどんなものがあるかということです。比喩も含めて。

私は「法律」を薬の一種と考えてみようと思います。

例えば、夫婦の間に法律が介入してくるときはどういうときでしょうか?
恐らく夫婦がうまくいかなくなって、離婚などという事態になりかかっているときでしょう。その夫婦は、夫婦として病気になっているのでしょう。
手術をして切り離さなければならないのかも知れませんし、法律という薬を念頭に置いて修復へと向かうかも知れません。例えば、<年金分割なんてやられたらたまんない>とか考えたりして・・・。

それに対して、夫婦にとっての食物は「愛」なのでしょうね。
ラベル:法律 夫婦
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宿命について

宿命と運命とは、違うのかも知れません。
というか違うとしたらどう違うんでしょうかねぇ?

先日、『オーラの泉』を観ていたら、美輪明宏さんが、この違いについて力説していました。
宿命は変えられないもの、運命は変えられるものというのが、大筋だったような。

さて、宿命についてアランは例えば次のように言います。

「宿命論とは、将来この世で起こることはすべて書かれている、もしくは予言されていると信ずる心的状態(disposition)にほかならない。」 (思索と行動のために p.262)

「宿命論は、私たちの心の罪を許す抽象的な理論なのである。」(人間論 p.248)

「もしも私たちが、木を切る人のようにしなやかで、冷静で、慎みがあるならば、宿命観はもはや何の力も持たないであろう。このとき、私たちは落ちついて未来を変えるのである。」 (人間論 p.248)

運命については、

「生きるという場合には、受け入れるのと余儀なくするのとでは大きな相違がある。行為自体が変えられるのである。運命が私たちを導くとはどういう意味か、はじめ私にはよくわからなかった。運命は私たちに対して刻々に通路を ---- おしひしがれ悲観している人が足を入れぬ通路を提供してくれる、というのがその意味である。希望は多くの戸を開いたのだ。」 (人間論 p.136)

これら四つの引用を見ただけでも、確かにアランは宿命論には批判的で、運命論についてはそれほどでもないような態度を採っていそうですね。

「一言で言えばすべての感情は、その対象がなんであれ、機械的な宿命を克服したという意味で、崇高さを内に含んでいるのである。」 (芸術について p.124)

さらにこの引用から考えてみるに、どうやらアランは「機械的な宿命」を超えるものを成立させる営みとして芸術を考えているように思います。もちろん、「機械的な宿命」を<否定する>のではなくて、<超える>のでしょうねぇ。




ラベル:宿命 運命
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アランに関係する書籍

アランに関する本はかなり出ています。
以下に、参考までに、リストを掲げておきましょう。
一応、日本語のものだけあげておきます。
すべて私は持っています。

邦訳

1. アラン著作集1 『思索と行動のために』 中村雄二郎訳 白水社
2. アラン著作集2 『幸福論』 串田孫一・中村雄二郎訳
3. アラン著作集3 『感情、情念、表徴』 古賀照一訳
4. アラン著作集4 『人間論』 原 亨吉訳
5. アラン著作集5 『芸術についての二十講』 安藤元雄訳
6. アラン著作集6 『イデー --哲学入門-- 』 渡辺 秀訳
7. アラン著作集7 『教育論』 八木 冕訳
8. アラン著作集8 『文学折に触れて』 杉本秀太郎訳
9. アラン著作集9 『宗教論』 渡辺 秀訳
10. アラン著作集10 『我が思索のあと』 田島節夫訳
11. 『思想と年齢』 原 亨吉訳 角川文庫
12. 『幸福論』 宗 左近訳 社会思想社現代教養文庫
13. 『諸芸術の体系』 桑原武夫訳 岩波書店
14. 『デカルト』 野田又夫・桑原武夫訳 みすず書房
15. 『神々』 井沢義雄訳 彌生書房
16. 『考えるために』(原典題名は『第一哲学についての手紙』) 仲沢紀雄訳 小沢書店
17. 『裁かれた戦争』 白井成雄訳 小沢書店
18. 『人生論集』 串田孫一編 白水社 
19. 『アラン・ヴァレリー』 中央公論社 世界の名著66
20. 『人生語録』 井沢義雄・杉本秀太郎訳 彌生書房
21. 『定義集』 森 有正訳 みすず書房
22. 『プラトンに関する十一章』 森 進一訳 筑摩叢書326
23. 『音楽家訪問 --ベートーヴエンのヴァイオリンソナタ --』 杉本秀太郎訳 岩波文庫
24. 『彫刻家との対話』 杉本秀太郎訳 彌生書房
25. 『我が思索のあと』 森 有正訳 思索社
26. 『人間論』 井沢義雄訳 角川文庫
27. 『幸福論』 白井健三郎訳 旺文社文庫
28.  同 平凡社 世界教養全集5所収
29. 『幸福論』 石川 湧訳 角川文庫
30. 『幸福論』 大木 健訳 評論社
31. 『経済随筆』 橋田和道訳 筑摩書房
32. 『スタンダアル』 大岡昇平訳 創元社
33. 『精神と情熱に関する八十一章』 小林秀雄訳 東京創元社
34. 『バルザック論』 岩瀬 孝・加藤尚宏訳 冬樹社
35. 『ラニョーの思い出』 中村 弘訳 筑摩書房
36. 『マルス---裁かれた戦争』串田孫一・加藤昇一郎訳 思索社
37. 『暴力の敗退』(上・下) 武者小路実光訳 創元社
38. 『芸術に関する101章』(原典題名は『美学入門』) 斎藤正二訳 平凡社 世界教養全集 12 所収
39. 『児童教育論』 松島 鈞訳 明治図書出版
40. 『アランの「エチュード」』 高村昌憲訳 創新社
41. 『海辺の対話』 原 亨吉訳 角川文庫
42. 『スピノザに倣いて』 神谷幹夫訳 平凡社
43. 『アラン教育随筆』 橋田和道訳 論創社
44. 『四季をめぐる51のプロポ』 神谷幹夫訳 岩波文庫
45. 『芸術論集・文学のプロポ』 中公クラシックス
46. 『プロポ I』 山崎庸一郎訳 みすず書房
47. 『プロポ II』 山崎庸一郎訳 みすず書房
48. 『アラン、カントについて書く』 神谷幹夫訳 知泉書館
49. 『幸福論』 神谷幹夫訳 岩波文庫
50. 『定義集』 神谷幹夫訳 岩波文庫
51. 『芸術論集 文学のプロポ』 桑原武夫・杉本秀太郎訳 中公クラシックス
52. 『アラン経済随筆』 橋田和道訳 論創社 [31.の改訳]
53. 『アラン 芸術について』 山崎庸一郎訳 みすず書房
54. 『アラン 初期プロポ集』 高村昌憲訳 土曜美術社出版販売

解説書など

1. アンドレ・モーロワ著 『アラン』 左貫 健訳 みすず書房
2. 加藤邦宏著 『アランの言葉--ビジネスマンのための成功哲学 --』 PHP研究所
3. 加藤邦宏著 『アランからのメッセージ --ビジネスマンのための人間学』  春秋社
4. 加藤邦宏著 『勇気がわくアランの言葉』 PHP研究所
5. 加藤邦宏著 『アラン『幸福論』の読み方』 プレジデント社
6. 木村艸太著 『アラン -- その人と風土 --』 綜合出版社
7. アンドレ・カルネック 『アランとルソー ---教育哲学試論--- 』 法政大学出版局
8. オリヴィエ・ルブール 『人間的飛躍 ---アランの教育観---』 勁草書房
9. 上田 薫 『布切れの思考 ---アラン哲学に倣いて---』 江古田文学会
10. 谷沢永一 『幸福通---アラン「幸福論」の知恵---』 海竜社
11. ジョルジュ・パスカル 『教育者アラン』 橋田和道訳 吉夏社

邦訳5. アラン著作集5 『芸術についての二十講』 安藤元雄訳については、矢内原伊作・安藤元雄訳の旧版があり、フランス語原典は同じなのですが『芸術について』という題名が付けられています。
邦訳16.の『考えるために』は原典題名が『第一哲学についての手紙』です。
『思索と行動のために』も原典題名は『哲学原論』といった意味です。

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2007年01月13日

勇気の大切さ

アランは、その師ジュール・ラニョー次の文章を引用しています。

「あらゆる困難は、君が勇気を欠くところから生まれてくる。」
(アラン 『我が思索のあと』 アラン著作集第10巻 白水社 p.167)

また、アランは、勇気というものによって人間を定義することができるだろうとまで言っています。

勇気を持たなければ自分を愛することさえできない、と。

例えば次のようにも言っているのです。

「わたしが自分のうちから成長させるもの以外は絶対に自分のものとはならない。こういう種類の勇気、こういう種類の経験、これこそが真の自己愛である。相手がこういう自己愛をもてるようにと手助けすることはできる。他人に対するこれ以外の奉仕はおそらくあり得ない。」(アラン 『感情・情念・表徴』 アラン著作集 第三巻 白水社 p.164)

しかしこの自己愛は、何か出来上がった対象のような自分を愛することとは違います。以下の引用は、こうした勇気を<対象のように考えてはならない>ことを述べています。

「私が行うこと、自己に関するのはそれだけだ。だが、自分のうちには何にも残らない。習慣や才能だけをあてにするのは、他人をあてにすることにほかならぬ。自己のうちに残されるのは勇気だけである。だが、これを奮い立たせ維持することが必要だ。これを対象化し、これを愛そうとしたら最後、そんなものはなくなる。」
(アラン 『思索と行動のために』 アラン著作集 第1巻 白水社 p.303)

好きだなあ、こういう言葉。

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2006年12月28日

説得力のあるもの

私たちはいろいろな考えを抱くものですが、そのなかで「最も陰気で、恐ろしく、絶望的なもの」こそが、最も説得力を持っているとアランは言います。(白井茂雄訳 『裁かれた戦争』 p.122)

「自己恐怖の感情は、自己嫌悪の感情同様に、説得力がある」とも(同じ箇所)。

それは「機械的に動かされる心理状態」なのだというのです。

要するに、そういうものは放っておけば私たちを支配してしまう。
情念というものがその典型でしょう。

それにあえて対抗するためには、<機械的に動かされない>状態に達しなければなりません。説得力を持っているものに、それにもかかわらず、反対してみる必要があるということでしょう。

デカルトの、いわゆる「方法的懐疑」はそういうものだったのでしょう。
<疑わしいから疑う>のではなくて、<あえて疑ってみる>わけです。

簡単ではありません。
ラベル:説得
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2006年12月25日

顔色が悪いなんて相手に言わないこと

「人に向かって、決して、顔色が悪い、などと言ってはならない」とアランは幸福論の中で書いています。

どうしてでしょう?

そう指摘されると、そのように演じるというか、そういう通りになってしまうからなのでしょう。

例えば、「お前はバカだ」と言われ続ければ、「そうなのかな?」と思ったり、「どうせそうですよ。」ということになってしまう。

何か過ちを犯したときに、「俺はバカだからどうしたってこうなるのさ。」みたいな考えに取り込まれていく。それをさらに人から言われると、もうそう信じてしまう。

「子供はむろんのこと、大人でさえも、過ちを犯すとそこに宿命を読み取ろうとする傾向があまりに強い。さらに、審判者の権威がそこに加われば、人々は自分に絶望してしまうし、自分がこういう人間であると他人が信じ、自分でも信じている姿を、夢中になって表す。」
こうアランは書いています(アラン著作集1 『思索と行動のために』 p.263 白水社)。
ラベル:顔色
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2006年12月23日

自殺について

自殺が非常に話題となった一年でしたね。

いじめが大問題であることは確かです。

ここでは、中学生とか高校生とかいうことでなく、一般的に考えてみます。

アランの『人間論』に「生きる勇気は死ぬ勇気よりまれなのだ」という言葉があります。
当たり前のような言葉ですが、私には結構いい言葉に思えました。

また、諦めて、自暴自棄になるということは、人からいじめられなくても、
あるものです。
<取り返しのつかないことしてしまった>という思いから、
自分を許せないなんていうこともあるでしょう。
そんな場合を念頭に置いたアランの言葉があります。

「我々の過ちは、我々が身を投げ出して意志を新たにするならば、
すべて許され、忘れられるものだ。」というもの(『思索と行動のために』)

それから思い出したのは、ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスの言葉。
正確な引用ではありませんが、彼の『自省録』に
「身体がまだ音をあげていないのに、心が音をあげるなんて意気地のないことだ」
という意味の言葉があったはずです。
この本は自分に鞭打つために彼が書いたものです。彼の頭を自殺がよぎった
んでしょうね。
自分では皇帝になんてなりたくなかったのかも。

アランに次のような言葉もあります。
「自分の外へ飛び出したりしてはならない。
マルクス・アウレリウスは、帝位を擲ちはしなかった。
つまり、軽蔑する術を知っていたのである。」(『思想と年齢』)
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2006年12月18日

思考にはある程度の寒さが・・・

思考にはある程度の寒さが必要だ、とアランは『人間論』で書いています。

デカルトから一番多くを学んだと言われているアランが、まさにデカルト念頭に置いて記した言葉でしょう。炉端における6日間の省察のことです。

「デカルト的な思考よりももっと透徹しもっと真実である自然な思考があるという考え」は破壊的だと言っています(『イデー』のなかで)。

もちろん、言わば<自然に反して>導入される、いわゆる「方法的懐疑」のことを考えているのです。そういう自然に身を委ねてしまえば、思考も狂気も区別さえできないというのでしょう。

では、温かい地域では話はどうなるのでしょう。

実際、デカルトに最初に全面的な反旗を翻したのは、温暖なイタリアはナポリの哲学者・修辞学者のヴィーコでした。ヴィーコの叙述方法が、デカルト的な明晰さを持っていないことは一読すればわかります。
でも、明晰判明さを求めてデカルトがふるい落とした事柄を、それは保存しているからなのではないでしょうか。

ヴィーコの営みは「思考」ではないのでしょうか?
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2006年12月12日

もう一度信じること

人間を信じるべき理由も沢山あるが、人間を信じるべきでない理由も沢山ある。だけど、春というものについては、それを信じるべき理由しかないとアランは『神々』という本の中で書いています。
これが生きるということだと。
一日の始まり、そして季節のめぐり、それに敬虔な気持ちで対することだというのでしょう。

それは、もう一度信じることだとも、書いています。

もうすぐクリスマスですが、ご存じのように、クリスマスは古い冬至のお祭りが起源です。冬至とは、一日の昼の時間がこれ以上短くはならないことを意味しているでしょうし、来るべき春を約束しているのです。

キリストは、そういう約束を「信じること」の動きの中に、位置づけられたのでしょうね。

「英雄や神の死と復活は、春の回帰と結び付くことになる」とは、アランの『思想と年齢』の中の言葉です。

「春を単にその自然の効果によって考えるのは、まだ考えることではない。それ〔考えること〕は、待つこと、身構えること、幸福となることである」とも、同じ本で書いています。
ラベル:信じること
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2006年12月11日

自分自身について考えること

自分自身を考えることは、時として、危険です。
特に、<自分自身のことしか考えられなくなっているとき>には、そうでしょう。

アランは、そういうときにあるのは、倦怠、悲哀、不安、焦燥といったものだ、と書いています。

そういえば、パスカルが、あのキリスト教の護教論の草稿、つまり『パンセ』の中で、頻繁に倦怠について述べていました。
きっと、数学だけでなく、自分自身のことに目が向いたのでしょう。
そうしたら、自分が(そして人間が)「悲惨」であることに気づく。
しかし、悲惨だけではないことにも気づく。
キリストにおいて、「偉大」と「悲惨」を同時に見て取る。
そうやってキリスト教にのめり込んでいるわけですね。

それに、刑罰における禁固刑の重さもここに関わっているかな。
独房の中では、恐らく、否応なく、自分自身に目は向くでしょうからね。

ラベル:自分自身
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2006年12月03日

考えるということ---他人と私

考えるとは、他人の思考に注意を払うことだとアランは言います。
他人の思考の中に自分を認めようとすることだ、と。

考えるとは共通の精神に参加することだ、とも。

誰かが何かを発言する。
私はそれについて考える。
疑問が生じる。
どういうことなのかを、<自分で考えて>、質問する。
相手は、自分の発言を吟味してくれたことを喜びつつ、
私の理解との差違をさらに発言する。
両者の理解が深まる。
人間としても、話題としても。

そこにこそ、他人も、共通の精神もあるのではないでしょうか?
ラベル:他人
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考えるということ---後悔することではない

考えるということは、どういうことなのだろうか?
いろいろなことを言えそうです。

アランは、考えると思い直すことであって、後悔することではないといっています。
当然、こういうからには、考えているつもりで後悔している人がいくらでもいるということでしょうね。後悔している人は、自分で後悔したくて後悔しているわけではない。後悔してしまうわけです。つまり、意図的に後悔する人はいない。後悔に意志は必要ない。放っておけば、後悔してしまうわけです。
しかし、思考は違うでしょう。
思考には意志が必要です。意志して、自分を統御して、初めて思考というものが成り立つのではないか?
『幸福論』の中で、アランは、考えるとは意欲することなのであると言っているのも、そういうことなのでしょう。

本当の意味で「考える」ということは、自分の考えを統御することなのでしょう。
ラベル:思考の訓練
posted by masaccio at 22:57| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月28日

もらった喜びではつまらない

安楽は、なにも解決しないという考えは、現代日本の人々にはあまり、アピールしないかな。

でも、もらった喜びではつまらない、というのは何となくわかりませんか?

人は、自分の行動を統御する限りで、快楽を味わうのかも知れない。
<はた目>には苦しそうな事柄を楽しんでいる人って、そうなのかもね。
posted by masaccio at 23:38| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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