2007年06月15日

意志の教育

リセの哲学教師であったアランが、次のように述べているのは結構興味深いと思います。

「私は、生徒の勉強は性格のための試練であって、知性のためのものではないという結論に達する。それが綴り方であろうと、訳読あるいは計算であろうと、重要なのは気分に打ち勝つことであり、意欲することを学ぶことである。」(アラン 『教育論』 p.85)

というのも、<そういう意識で日本は教育などしているだろうか?>と思うからです。
もちろん、そういう教育こそ必要だと私は思うのです。

意欲というものを失ったような若者はあなたのまわりに結構いるんじゃないでしょうか?
いや、若者だけではないでしょう。

アランは、

「考えるとは意欲することなのである。」(アラン 『幸福論』 フランス語原文 p.91)

とまで言っています。

自分を決めつけて、意欲できないようにしてしまっている人さえ、見かけるでしょう。
次のような人です。

「まず自分を信じないのに何事かを企てるというのは、明らかに狂っている。意欲できると信じないで意欲すること、自分に対して大きな誓いを立てないで意欲することは、決して意欲することではない。自分が弱くて浮動することを予見する人は、既に弱くて浮動している。」(アラン 『思想と年齢』 p.93)

オプティミスムが意志の所産であることは、アランの主張の中でも多くの人が共感するところでしょう。

「あまり注目されていないことだが、オプティミズムが意志の所産であるのに対し、ペシミズムは人間が意欲を喪失したさい、直ちに陥る自然な状態である。その深い理由は、いい加減な思い付きを厳しく監視し、自己に誓いを立て、順序だてて行動する自己統御こそが、あらゆる幸福の源泉であると共にその条件だからである。人間は身体の動きに流されてしまうと、自分がどれほど陰気な自動人形に堕してしまうか、十分自覚していないのだ。」(アラン 『裁かれた戦争』 p.122)

対象をきちんと認識し、それを用いること。
これは大事です。
「思考し意欲する術は、航海の術に似ている。人間は大洋より弱いにかかわらず、横断に成功する。波や流れを利用するのだが、彼の望むがままに利用するのではない。流れや波の望むがままにでもない。」(アラン 『人間論』 p.30)

<なんでこんな世に生まれちゃたんだ! 別に生まれたくて生まれてきたんじゃないやい!>
なんて思う人もきっといるでしょうが、

「人は生まれることを選ぶわけではなく、もちろん自分の両親を選ぶわけでもない。それで、よい意欲、正しい意欲は、ここから出発して、出てくるものを伸ばすことにある。」(アラン 『人間論』 p.135)

という言葉もありますよ。
タグ:意志
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2007年06月09日

ひとりでに

<ひとりでに>起こることとはどんなものでしょう?

<自然に>と言ってもいい。

そういうものを肯定的に取っていいでしょうか?

日本には、老荘思想の影響もあって、無為自然を大事にするところがありますね。
西洋でも、ストア派の思想などには「自然に一致して生きる」といった考え方があります。

ここでは、否定的に取るべき場面について考えてみましょう。

「すべての凶事(まがいごと)は、ひとりでに起こる。計算違いも、ひとりでに起こる。パニックも、ひとりでに起こる。海難も、ひとりでに起こる。倒れるためには、注意力など、ちっとも必要でない。自然が、それを引き受けてくれる。間抜けであったり、不器用であったりするのは、むつかしいことではない。正義に悖るのは、むつかしいことではない。もうだめだと、考えることも、すべては躓き倒れる老人のようになる、と考えることも、むつかしいことではない。それは崩れ落ちる言葉である。これに逆らって、詩人は、創作するものだ、と私は思う。なぜなら、詩人は、言葉を垂直に立てるからである。もっと適切にいえば、彼は、あらかじめ、言葉を規則づけるのだ。なにをいおうとするか、まだわかってはいないのだが、彼は、規準に従ってものをいうことを、誓ったのだ。」
(アラン 『美学入門』 p.251)

この引用にもあるように、意志的な「誓い」こそ、詩人の言葉を救うものなのでしょう。

そんな厳しい誓いを立てて、思考し、行動することを、人々は忘れかけてはいないでしょうか?

教育の場面でもアランは次のような言葉を残しています。

「ひとりでに興味の沸くようなことのいけない点は、人がそれに興味を抱くのに骨をおらぬということであり、意志によってそれに興味を抱くことを学ばないということにある。」(アラン 『教育論』 p.12)
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2007年06月04日

ラファエロの肖像画

フィレンツェのウッフィーツィ美術館で、ラファエロの肖像画を観たことがあります。
自画像です。
<いやー、こいつは一筋縄じゃあいかない人物だなあ>というのが、そのときの感想。
もちろん、<すごいなあ>ということです。

そこで、アランが肖像画について語っているところを見てみることにしましょう。

「〔肖像画が定着するもの〕原始的な裸の自然ではなく、経験を積み重ねてきた自然、しかもそれがそっくり一つの貴重なひとときのなかに集中し、そのひとときを画家が永久に定着するのです。それ自体の思い出を背負い、さまざまな出会いによって豊かにされ、さらには変化させられた一つの自然をゆっくりと形成する作業と、絶えず積み重ね、積み上げ、保存しつつ変化させる画家の作業そのものとの間に、対応関係があるのです。ここに閉じ込められているのは一つの魂の記憶であり、歴史なのです。」(アラン 『芸術二十講』白水社著作集5 p.238)

「彫刻の中には形而上学があり、絵画の中には心理学がある。」(アラン 『芸術について』白水社著作集旧版5 p.250)なんていう言葉もあります。

「画家の愛する対象、かつ画家だけが愛する対象である眼差しを、またその周囲のことを思ってみたまえ。眼差し、この魂の先端。」(同書 p.255)なんていう言葉も。

若くして死んだラファエロですが、アランのこうした指摘にあるように、そこに凝縮している「魂の記憶」、「歴史」、「心理学」、そして<眼差し、この魂の先端>を感じ取るには十分だった気がします。

まあ、いずれにしても、美しい絵を観るのは、幸福に資するものだと私なんかは思います。
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2007年04月28日

批判とディベート、そして会話

ディベートっていうのは、もう35年以上も前に初めてやりました。
大学に入ったばかりのとき、いわゆる勉強会をやるサークルに入っていたのです。
そこで、やった。
初めから嫌いでした。
なんだか、自分の本心とは別に議論に勝つ技術ばかり磨くのは性に合わなかった。
まあ、確かに、世の中、議論に勝たなきゃ悔しい思いをしたりするんですけどね。

批判して議論に勝つ、それがディベートなんでしょうね。

そんな会話は、アランが次のように書くような進み方をするんでしょうね。

「会話は、暴君的な法則をもっているものだ。」(アラン 『美学入門』 p.110)

でも、そんなことより私は会話を楽しみたいなあ。

楽しみための会話にも注意すべき点があることの指摘もアランは忘れていません。

「長年にわたってサロンをひらいていた、さる貴婦人が、私にこういったものだ。『会話を生き生きとはずませるためには、遊び半分に反論するよう心がけることが必要です。ところが、そんなことをしていた日には、判断力を狂わせてしまうのです』と。この言葉は、人が考える以上に真実である。しかしながら、このことを認める人は少ない。それほど、交際の楽しみというものは、大きいものである。」(同前)

さて、何を会話では話したらいいんでしょうか?
次のようなことかもしれませんね。

「会話ということについてスピノザは忠告する。人間の隷属状態だとか、弱点だとか、悲しみだとかについては控え目に、反対に力だとか、喜びだとかについては、存分に話すがいい、と。」
(アラン 『思索と行動のために』 p.372)

そして会話の相手に優越感をもったところで何の意味もないのではないでしょうか?

「私は精神に話しかける。それになんどか話しかける、深く眠った人にたいするように。精神は夢の中で私に答え、見当違いの答えをする。もし君が会話の浅い楽しみしか求めないのであれば、この試験は君に優越感を与えるに足りる。だがその優越感は、眠っている人を揺りおこしてみない限り不確かだ。これは神様かもしれぬ、神様がぼくをからかっているのかもしれぬ、とこう考えるがよろしい。精神に思いをいたすやいなや、優越感は消える。」(アラン 『人間論』 pp.261-262)

ソクラテスは、そうやって対話の相手を揺り起こしてみようとしたんでしょうね。
タグ:ディベート
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2007年04月12日

批判とかの続き

批判について、先日、書いたんですが、それとの関連でブレーンストーミングを思い出しました。

アイデアを出して、それをまとめ上げるときに使うあれですね。

その実行原則の一つとして、「批判をしない」みたいなのがあったと思います。
批判しないで、むしろ発言を発展させるという感じでしたね。

これは結構大事だと思います。

<批判するよりは救い出す、ないし助ける>わけでしょう。

自分に対しても、批判ばかりして追い込んでも仕方がないんじゃないのか・・・。

例えば、

「自己自身に対する一種の義務としてすでに最善のものを救うべきであり、他のことは出来れば忘れるようにしなければならない。そして私の考えたところでは、これこそ真の悔悟なのだ。これに反して、無益な後悔は自己の亡霊のなかに成立するものである。」
(アラン 『わが思索のあと』 p.304)

なんていう言葉もあります。

また、次の言葉もちょっといいですね。

「私たちの意志は、どんなに合理的な意志であっても、まったく合理的でなかった選択からできる限りのものを救うことに、常に執心するものである。」
(アラン 『イデー』 p.112)

文章を書くときにだって、こういうことは言えそうですよ。

「すべての選択は既になされている。ここでは、自然が私たちの先を越しており、ほんの些細な事柄においてもそうである。なぜならば、ものを書くとき、私は語を選ぶのではなく、むしろ、自然の動きを解き放つことに注意しながら、既に始まっているものを継続するからであり、これは、変えるというより、むしろ救うことである。」
(アラン 『思想と年齢』 p.338)
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2007年04月08日

助けるということ

助けるということ、それも自分以外の人を助けるということ、それは結構難しいことだと思う。

これについてもアランは示唆的な言葉をいくつか残している。

自分がきちんと立っていないのに、人を助けることなんて、まず出来ない。

「私が他人を助けるとしたら、それは自分自身を支配することによってであり、ほかに方法はない。」
(アラン 『宗教論』 p.195)

それに、<助けられる>と普通言われる方の人だって、実際には次のようなことなのだろう。

「私は君を助けるだろう。だが、君を助けるだろうものは、君自身である。というのも、自由な人はただ自由な人をしか愛することはできないから。」
(アラン 『神々』 p.264)

だからこそ、次のような指摘ももっとものことのように思えてくるわけだ。

「義人に出会う度毎に、人は義人の内に愛することや助けることへのある種の拒絶を認めて、少なからず驚く。目に見えない秩序、そのままで普遍的な秩序に向けられた義人の視線がそういう拒絶を表しているのだ。」
(アラン 『宗教論』 p.196)
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批判とか、非難とか

今日は、批判とか、非難とかについて書いてみたい。

批判ていうのは、必要なものと考えられている。
<何に?>って、社会生活や学問の世界や、どんなところでも。
もちろん、そうでしょう。
そもそも批判とか非難とかを意味するフランス語はcritiqueで、そのギリシア語の語源はクリノーという言葉で、「分ける」という意味をもっている。
良いものと悪いものとを分けるといった場合を考えてもいいし、カントの『純粋理性批判』を思い出して、可能的経験とそうでないものを分けるなんていう場合を考えてもいい。

ただ、問題はアランが次のようなことを言う点を、どれだけ人が考慮するかだと思う。

「何事かを、あるいはだれかを批評する人の内には---たとえ正しい批評であっても---何か苦いところがありはしないか、気をつけて聞くがよい。なぜならば、これこそ最悪の徴だからである。」
(アラン 『人間論』 p.266)

「現代に共通の謬見の一つ、----- そしてこれは、むしろ忘恩の時代と呼びたい批判の時代の名残なのだが ----- それは、観念が真であるとすることである。四分儀や経緯儀が真であるかどうか考えてみる方が、まだしもよかろう。なぜならば、これらは、よりよく把握するための道具だからであり、実は私たちのすべての観念も、同様に、よりよく把握するための道具なのである。」
(同書 pp.94-95)
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2007年03月29日

拒否すること

思考と拒否とが密接に関わっている、というと不思議に思うでしょうか?
しかし、思考するとは、差し出されたものを吟味することです。
なあなあで受け入れてしまったり、面倒くさがったりしていては思考は消えてしまうのです。
無意識になる、いや、<気を失う>とでもいう事態が生じるのです。

アランは簡潔に次のように書きます。

「思考するとは拒否することだ。」(アラン 『宗教論』 p.157)

そしてそれは次のようなことでもあります。

「思考とは意志的なものであることを知ることが必要だ。」(アラン 『思索と行動のために』 p.169)
「実は、意志的なものでない意識などというものはなく、また意志的なものでない思想などというものもない。」(アラン 『神々』 p.142)

また「怒り」について考えてみましょう。
怒りは「恐怖の結果として自然に生じる」とアランは言います。
そうだとすると、些細なことにでも恐怖を抱く人は、自然に、容易に、怒りを抱くということもわかるでしょう。
「臆病な人たち」とは、そういう人たちなわけです。

「臆病な人間は、他人との交際で、すべてを聞き、すべてを取り集め、すべてを解決したがる。」(アラン 『幸福論』 p.77)

もちろん、<他人は私についてどう言っているのか?>、<悪口を言われているのではないか?>などといった取り越し苦労(これも恐怖でしょう)が、怒りを生みだすのです。
<気にしない>ことができないのです。

「私がしばしば考えたところでは、情念に駆られた不正な愛と解される人間嫌いは、多くは、人の言う言葉を気にしすぎることに基づいている。」(アラン 『わが思索のあと』 p.240)

だからこそ、<気にしないこと>を訓練しなければならないでしょう。

「処世術の秘訣は、礼節をつくしながら何も考えないこと、他人がそれを何と思おうと気にしないことである。」
(アラン 『感情・情念・表徴』 p.200)

この<恐怖から怒りへ>の道筋・メカニズムを理解することによって、その移り行きを<拒絶する>か、
それができないにしても少なくとも<統御する>必要があるでしょう。

「情念の本当の原因を知らない限り、人間は情念に対して全く無力」(アラン 『幸福論』 p.10)なのですから。
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儀式というもの

儀式というと、形式張っていて御免こうむるという人も多いのでしょう。

ただ形式が内容を救うということもあるのかもしれない、といったことは考えてみた方がよさそうです。

次のような言葉があります。

「凡そ儀式の身振りは決して烈しいものでもなければ、予見されないものでもない。」(アラン 『神々』 p.136)
          
振舞いが穏やかで予想されるものであること、それは人を落ち着かせるでしょう。
その儀式に積極的に参加する者は、その落ち着きを自分のものとして手に入れるでしょう。
情念に揺り動かされていた者は、それから、ある程度、救い出されるでしょう。
要するに、外面的なものが内面を救うのです。

アランは、
「結局のところ、情念に勝つのは外的な秩序だけである。」(アラン 『イデー』 p.338)
とまで言っています。

「内面の平和は外面の平和を必要とする。」(アラン 『人間論』 p.33)、とも。

一人では容易に手に入れられないような落ち着きも、集団がそれを助けることによって手に入れうる場合があります。
だからこそ、アランは次のように言いのでしょう。

「儀式は集団的な礼儀である。」(モーロワ 『アラン』 p.83)

芸術にもこのことは関わってきます。

「詩、散文、美しい言語は、また儀式である。」(アラン    『神々』 p.135)
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2007年03月22日

判断と情念

判断とは、放っておいても生じるものなのでしょうか?

多分違うでしょう。

アランは判断の重要性についても語っています。
そこには意志が関わってくるという点が強調されます。
しかもそれが情念との絡みにおいてであることを心しなければなりません。

「外界の驚異を追い求め、何一つ見落とさないよう細心の注意を払うよりも、さまざまな情念から、つまり感動的な意見から身を守るべきだとされる。こういう掟は経験よりもむしろ意志に由来し、実際にはほとんど行われない。そういう掟を人々はあるがままには捉えないからだ。それは適切に言えば、判断と呼ばれ、道徳的秩序に属する。情念の落し穴と言葉の安直さを充分に知ったものでない限り、判断の価値を感知し得ない。これを要するに、精神が抵抗し拒絶することが必要だ。」 (アラン 『思索と行動のために』 p.161)

情念に翻弄されている場合には、判断など下せない。
認識というものを手に入れていると考えていても、それは判断にはまだ足りない。
上の引用の最後にあるように「精神が抵抗し拒絶する」には意志が必要なのです。
怒っているときは(つまり怒りの情念に翻弄されているときは)、自分の<認識>を疑ってなど、たいていの場合、いないものです。
自分の怒りは正当であるとしつつ、すべての<論理>を組み立てます。
怒りに抵抗し拒絶などしていません。

こういった一連の事柄を考えさせてくれる引用をいくつかしておきましょう。

「正しく判断するには魂の偉大さと同時に気高さが是非とも必要だと私は言いたい。」 (アラン 『思索と行動のために』 p.256)

「その各瞬間に「神」であること、「判断」とは、かようなものである。」 (アラン 『ラニョーの思い出』 p.57)

「種々の意見が絡み合って作られている人間界の事象の場合は、真実は確認されるものではなく、作り上げられるものだということである。だから認識するだけでは十分ではない。判断という美しい言葉の持つ最上の意味で、我々は判断を下さなければならない。」 (アラン 『裁かれた戦争』 p.135)

「誰でも知っていることだが、怒りとか、愛とか、野心とか、吝嗇とかの情念は、思考の調子が狂うところに成立する。人はもはや思考を検討せず、導きもせず、ただ信じ込み、後を追って行くだけとなり、思考は進展しなくなると同時にすべて茨のように刺々しくなってしまう。」 
(アラン    『芸術について』[白水社アラン著作集旧版第五巻] p.36)

タグ:判断
posted by masaccio at 23:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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